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人生朝露

人生朝露

人間万事、ツァラトゥストラの偶然。

荘子です。
荘子の続き。

Zhuangzi
『支離疏者、頤隱於臍、肩高於頂、會撮指天、五管在上、兩髀為脅。挫鍼治?、足以餬口。鼓筴播精、足以食十人。上?武士、則支離攘臂而遊於其間。上有大役、則支離以有常疾不受功。上與病者粟、則受三鐘與十束薪。夫支離其形者、猶足以養其身、終其天年、又況支離其徳者乎。』(『荘子』人間世 第四)
→支離疏(しりそ)という人は、背骨が曲がりあごがへそに隠れるほど、肩は頭より上にでっぱり、髪のもとどりは天を指している。脇の下がもものようであり、内臓は頭より上にあるような姿をしている。(そんな姿をしているが)縫い物や洗濯を仕事とし、脱穀をさせようものなら、十人を養うほどの才能が有る。たとえ戦争が始まっても、支離疏はありがたくも頂戴する徴兵の義務を免れるし、土木の労役も免れるので、駆り出される男たちの間をぬってのんびりと暮らしていける。王から病傷者への施しとしての三鐘の粟や十束の薪を、彼は真っ先に受けることができる。他人と形の違う彼は、その身を養い天寿を全うできるのであるから、心が他人と違っていようが、命を全うできることであろう。

支離疏の支離というのは、いわゆる傴僂(せむし)の意味でして、差別用語として、あまり今の世に出ることのない言葉です。

・・・そもそも、人の形って何なんでしょうね?

参照:Aerosmith - Pink
http://www.youtube.com/watch?v=RLRLhV9U0kQ&feature=related

参照:荘子と進化論 その82。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201107090000/

荘子と進化論 その84。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201107200000/

ニーチェ(Friedrich Nietzsche 1844~1900 )。
『或る日、ツァラトゥストラが大いなる橋を超えて行ったとき、不具乞丐の群れが彼を取り囲んだ。「みよ!ツァラトゥストラよ!民衆も汝より学び、汝の教義を信ずるに至った。されど、民衆をして汝を信ぜ得しめさせんがためには、さらになお一つのことがあらざるを得ぬ。すなわち汝はまず我ら不具者を説伏せねばならぬ!今汝にとって選択は思うがままである。まことに汝の捉えうる機会は、その前髪ただ一掴みのみではないのだ!汝は盲者を癒すこともできる。足萎えを歩ましむることもできる。また、傴僂からその背の贅肉のいささかは取り去ることもできる。癈疾の徒をしてツァラトゥストラを信ぜしむべく、これぞよき手段であろう。」かく言いし者にツァラトゥストラは答えた「傴僂の人間よりその傴僂を取り除くのは、彼の精神を奪い去るに等しい。之ぞ民衆の教養である。盲目の人間に眼を与うる時は、彼はこの地上の悪を見ることあまりに多過ぎ、彼を治癒するものを呪詛するに至る。さらに足萎えをして歩ましむる者は、彼に最大の害を加うるものだ。何となれば、彼歩みいずるや否や、彼の背徳もまた彼と共に奔るからである。之ぞ、不具者における民衆の教義である。しかして、民衆がツァラトゥストラより学ぶときに、いかにしてツァラトゥストラが民衆より学ぶべからずということがあろうぞ?(中略)ある人間はある一物において多く有する代わりに総てにおいて欠けている、という、このことである。かかる人間は一つの大いなる眼か、一つの大いなる口か、または一つの大いなる腹、或いは他に何らかの大いなる物である。我々はかかる人間を呼んで逆の不具者と名付ける。』(『ツァラトゥストラかく語りき』新潮文庫 竹山道雄訳))

Zhuangzi
連叔曰「然、盲者無以與乎文章之觀、聾者無以與乎鐘鼓之聲。豈惟形骸有聾盲哉?夫知亦有之。是其言也,猶時女也。」(『荘子』逍遥遊 第一)
→連叔は言う。「確かに、盲者は文章を目で感じ取ることは出来ず、聾者は鐘の音を耳で感じととることはできない。ただ、それは肉体において見えないとか聞こえないなどという話だ。知者と呼ばれる人の中にも、真実を見ることや聞くことが不自由な者がいる。それは、あなただ。

『荘子』の養生主篇から、頻繁に登場する障害者の記述は、『ツァラトゥストラはかく語りき』のそれと非常によく似ています。今更ながら、永劫回帰説に至る経緯と荘子の内篇内容の一致は、ちょっとシャレになってないですよ。

閑話休題。

前述の『荘子』の人間世篇の寓話は、『日本書紀』の元ネタ『淮南子』では、こうなっています。
『淮南子』。
『夫禍福之轉而相生、其變難見也。近塞上之人有善術者、馬無故亡而入胡。人皆吊之。其父曰「此何遽不為福乎?」居數月、其馬將胡駿馬而歸。人皆賀之。其父曰「此何遽不能為禍乎?」家富良馬、其子好騎、墮而折其髀。人皆吊之。其父曰「此何遽不為福乎?」居一年、胡人大入塞、丁壯者引弦而戰、近塞之人、死者十九、此獨以跛之故、父子相保。故福之為禍、禍之為福、化不可極、深不可測也。』(『淮南子』人間訓)
→幸福が不幸に、不幸が幸福に転じる人間社会のありようは、その変化を見極めるのが難しい。城砦の近くによく道術をわきまえた人がいた。その人の馬が勇壮な胡の国に逃げてしまった。人々は皆彼に同情した。するとその人は「このことが幸福に転じるかどうか分からないさ」と呟いた。数ヶ月経ってみると、逃げ出したはずの彼の馬が、胡の国の駿馬を何頭か連れ立って帰ってきた。人々は皆彼をお祝いした。すると彼は「このことが不幸に転じるかどうかわからないさ」と呟いた。駿馬のおかげで家は豊かになり、彼の息子は騎馬が巧みになったが、ある時息子が落馬して骨を折る大怪我をした。人々は皆彼に同情した。すると彼は「このことが幸運に転じるかどうか分からないさ」。一年ほど経って、胡の国の兵が城砦に攻め上ってきた。城砦の若者は全て駆り出され、十人のうち九人が命を落とすほどの激戦の末、城砦は辛くも守られた。大怪我をおった彼の息子は、徴兵されず息子の命は奪われずに済んだ。幸福が不幸となり、不幸が幸福となる、その変化は見極めがたく、又、推し量り難いものである。

「人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)」です。

シンボル。
『淮南子』だと、どうしても、「人生楽ありゃ苦もあるさ」よろしく、人生訓としての寓話の扱いにされてしまいます。老子流にいうと、「禍は福の倚る所、福は禍の伏する所」。司馬遷の『史記』では「禍福はあざなえる縄の如し」と言いますが、『荘子』という書物では、禍福以前に原因と結果の因果律という観点から見ないと分からない部分があるんですよ。

Zhuangzi
『卮言日出、和以天倪、因以曼衍、所以窮年。不言則齊、齊與言不齊、言與齊不齊也、故曰無言。言無言、終身言、未嘗言。終身不言、未嘗不言。有自也而可、有自也而不可。有自也而然、有自也而不然。惡乎然?然於然。惡乎不然?不然於不然。惡乎可?可於可。惡乎不可?不可於不可。物固有所然、物固有所可、無物不然、無物不可。非卮言日出、和以天倪、孰得其久。萬物皆種也、以不同形相禪、始卒若環、莫得其倫、是謂天均。天均者、天倪也。』(「荘子」寓言 第二十七)
→日々口をついて出てくる卮言は、天の有様と調和し、しがらみのない世界に身をおいて、命を全うするためのものだ。「同じものだ」、「違うものだ」という言葉にとらわれた論争そのものが、天のもたらす有様とかけ離れていく。だから、かつての至人といわれる人は、是非の判断を決め付けたりしなかった。この世の有様は、是非の論理に囚われていては、一生しゃべり続けても説明できるものではなく、たとえ、しゃべらなくとも(言葉で物を考えている以上は)、結果は同じことだ。人間の視点に立って物事を考えるのに、「良いもの」「悪いもの」「これはこうだ(然り)と思うもの」「これはこうではない(然らざる)と思うもの」と決めつけて考えたがるが、何を以って「良い」「悪い」「こうだ」「こうではない」と考えているのか?物事というのは、どう考えたところで、元からそうあり、そうあるべき場所におちつくようになっているのだ。出来事は、言葉で考えている人間の思い込みとは、往々にして違う結果になってしまうものなのだ。(賢き人よ、そうではないか?)。是非の論理ばかりではなく、卮言によって、和を以って天の有様を語らねば、この世の長い歳月の間の営みを、誰が理解できよう?万物はそれぞれに種(違い)があり、形質が違うが故に、お互いに関係しあっている。その始まりも、その終わりも、まるで輪のように連続していて分けられない。これに一つの枠をはめることはできない。天の調和というものは、(人間の考える是非の論理とは別次元の)宇宙の原理であるからだ。

参照:12 Causality
http://www.youtube.com/watch?v=b02SihR324A

ニーチェ(Friedrich Nietzsche 1844~1900 )。
『先に我は汝らに「意志は創造者である」と教えた。かのときに我は汝らをこの荒唐の歌より救い出した。一切の「かくありき」は断片であり、謎であり、戦慄すべき偶然である。之に対して創造的意志はかく言って、之を否定した。「さあれ、我はかくあるを欲した!」と。創造的意志はかく言って、之を否定した。「さあれ、われはかくあるを欲する!かくあるを欲するであろう!」と。果たして、意志はかく言ったのであろうか?何時いったであろうか?果たして意志はその自己の痴愚から蝉脱しえたろうか?意志は自己の救済者、また歓喜を齎す者となったであろうか?意志は復讐の精神とあらゆる切歯とを忘却したであろうか?意志に時間と和解を教え、また、総ての和解より高いものを教えたものが誰かあったろうか?意志は権力への意志である。かかる意志は総ての和解より高いものを意欲せねばならぬ。さあれ、かくあるにはいかにすべき。意志に時間を遡って意欲するを教えた者が、誰かあったのであるか?』(『ツァラトゥストラかく語りき』新潮文庫 竹山道雄訳))

Zhuangzi
『適來、夫子時也。適去、夫子順也。安時而處順、哀樂不能入也、古者謂是帝之縣解。』(『荘子』養生主 第三)
→彼がたまたま生まれたのはその時に巡りあったからであり、彼がたまたまこの世を去るのは、彼がその順に従ったまでのこと。天の道理にしたがって、時に安んじれば、哀楽の入り込む隙はない。古人はこれを天帝から解放された縣解の境地と言ったのだ。

・・・この「たまたま」ってのが、凄いと思っているんですよ。

今日はこの辺で。


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